『夜と霧』(新版) ヴィクトール・E・フランクル

 ユダヤ人強制収容所に入れられた心理学者がひとりの被収容者としての体験を綴ったもの。読んだのは池田香代子訳で2002年の新版。旧版とはだいぶ趣が違うそうだ。原題は「心理学者、強制収容所を体験する」を意味する。

4622039702夜と霧 新版
(著)ヴィクトール・E・フランクル (訳)池田 香代子
みすず書房 2002-11-06



 著者はウィーンの心理学者だった。強制収容所に入れられてからの心の有り様をできるだけ客観的に分析し、人間が極限でどのような感情に至るかを克明に記している。ナチスのむごたらしい仕打ちは必要最低限の記述に留められ、被収容者の内面を綴っている。その淡々とした語り口が逆に心に深く刺さる。

 この本が教えてくれたのは強制収容所の恐ろしさではなく、地獄に放り込まれた人間が人間たらしめるのに必要なのは哲学であるということ。どんなに極限に追い込まれても自分を見失わない。それができる人こそが成長する。そんな風に書かれている。ここに達するまでの紙幅でどんどん精神的に追い込まれていく状況がわかるため、その崇高さが表れるところに悟りのようなものを感じずにいられなかった。




p112-113
 そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだろう。

p121-122
 現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ「目的なんてない」からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。被収容者として過ごす時間がもたらす苛酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。その可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人びとだった。しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。ごく普通のありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。

p131
 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみとと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない、だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。


 学校で歴史を学び、日々の生活の中のふとした瞬間に生きることの意味を問うていた高校時代に読んでおきたかった。あの頃読んでいたどう感じていただろうか。悩める高校生・大学生は読むべき。
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by vamos_tokyo11 | 2009-02-01 14:04 |


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